城山公園 神奈川県綾瀬市にある広大な史跡 御家人の城跡 縄文時代や古代の集落

2021年1月18日月曜日

関東の遺跡

神奈川県綾瀬市にある「城山公園」
鎌倉時代源頼朝の御家人・渋谷重国の居城跡(早川城跡)とされています。
また、縄文時代や古代の集落が営まれていた場所であることも発掘調査から判明したとか。

【城山公園】
所在地 早川城山三丁目4-1
(バス停「城山公園」からスグ)

園内は広く、アップダウンのある敷地。
各所に史跡の案内板もあります。
この場所の歴史に思いをはせつつ、ちょっとした運動になる散策ができる場所です。

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前掲の案内板によると・・・・・・・
早川城跡は地元では古くから「城山」(じょうやま)と呼ばれていて、
御家人渋谷氏の城と伝えられていましたが、文献資料がなく、実態が明らかではありませんでした。
そこで、綾瀬市教育委員会が平成元年度から平成6年度、早川城跡の学術調査を実施。その結果、堀切・土塁・物見塚・曲輪(くるわ)等、多くの城郭関連遺構が発見され、県内でも有数の保存状態が良好な中世城郭であることが明らかになりました。また、城郭が構築される以前には、縄文時代や古代の集落が営まれていたことも明らかになりました。
・・・・・・とのこと。

公園の周囲はまだ新しい雰囲気が漂う閑静な住宅街です。

城山公園北側の入り口から入ってスグの場所。炊事棟にある案内板
「古代の城山」
古墳時代の終わりごろから奈良・平安時代にかけて、早川城周辺には大きなムラが造られます。市立城山中学校から早川城跡にかけての台地上からは100軒を超える竪穴住居址が発見され、
目久尻川を挟んだ対岸の宮久保遺跡(県立綾瀬西高等学校)からも150軒の竪穴住居址が発掘調査されています。
住居址内からは土師器(土器)、須恵器(陶器)、鉄製の農工具類、墨書土器(文字の書かれた土器)が出土。当時庶民レベルまで鉄製品や文字が普及し始めたことが分かります。また、早川城跡や宮久保遺跡からは都で作られた奈良三彩という珍しい陶器も出土しています。
・・・・・・とのこと。

園内のいかにも城跡を彷彿とさせるような地形。
斜面に設置された長~いすべり台

こういうところもなんだか城跡って感じがする

ココ、結構下るの。谷!て感じ。外敵から守るような地形だったのかしら?とか想像しちゃう

そのように、そこそこ傾斜があり、段数の多い階段が結構あります

バラ園へ続く階段も、公園の階段にしてはなかなかの高低差のような

「湿生園」という場所もあります

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「桜の広場」へ続く階段そばにある案内板
「1号柱穴列(ちゅうけつれつ)から出土した火舎片(かしゃへん)」
平成3・4年度の発掘調査により、早川城北西部の斜面に段切して作られた腰郭(こしくるわ)に、掘建柱建物の柱穴列が見つかりました。早川城関連施設で、見張り小屋的機能をもった建物跡と思われます。その柱穴列の箇所より、かわらけとともに瓦質でできた火舎(火鉢)の口縁部(こうえんぶ)の破片(口径42㎝)が出土。14世紀頃(鎌倉時代後期~室町時代前期)に作られたものと推定されます。
・・・・・・とのこと。

「桜の広場」

桜の広場にも案内板があります。
「物見塚と東郷氏先祖発祥地碑」
早川城本郭西側に位置する塚は物見塚と呼ばれています。南北21m・東西23m・高さ約2mの塚。発掘調査の結果、表土直下に宝永火山灰(1707年、富士山の噴火による火山灰)が見られることから江戸時代初期以前に築かれていることは明らかです。城郭関連遺構の一つで、外敵侵入を見張るために築かれた塚であると思われます。・・・・・・とのこと。


「縄文時代の城山」
早川城跡の発掘調査では、早川城が造られる以前の縄文時代や古代における生活の様子も明らかになってます。台地平坦部からは約5000年前にあたる縄文時代中期の竪穴住居址2軒が発見。いずれも使用後ゴミ捨て場として利用されていて、多量の土器・石器が出土。出土した土器は「勝坂式土器」(かつさかしきどき)と呼ばれる、関東地方の縄文式土器の中でも装飾性に富んだ土器。
周辺には早川天神森遺跡や道場窪遺跡など、同時期の縄文時代のムラが隣接して作られており、当時、早川城一帯は、豊かな自然に恵まれ縄文人にとっても住みやすい場所であったことが想像されます。
・・・・・・とのこと。

さいごに。
城山公園の日本庭園。紅葉も楽しめる場所です。

訪問年月:2020年12月

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